モザイクアートが嫌いだ。モザイクアートに対してウゼーとかキメーとか思ったことがないやつは反省してほしい。そして、あいつらが何をやっているのかを説明するので、俺と一緒に憎んでほしい。
単にモザイクアートと言うと、タイルを貼り付けるやつとか意外と広い範囲を指すらしいが、この文章で扱うモザイクアートは、写真をいっぱい集めて大きな絵を作るものに限る。
まずモザイクアートをやりたがるやつは、笑顔の人間の写真を集めている。要するに、『僕たち私たちのかけがえのない人生が集まって、一つの大きな作品を形作りました!』とやりたいのである。
笑顔だけを集めることは、笑顔以外を排除することだ。
他でもない「私たちの社会のアナロジー」としての作品を作るために、被写体の笑顔の瞬間だけを切り取って、その他を排除する。皮肉としてはよくできているが、ポジティブなものを作ろうとしたときに、これはもう構造として失敗じゃないのか。
人生において笑顔の割合はどの程度だろう。笑顔だけを切り取った時に、それは人ひとりの何%だろう。
個々の人生が尊いものであるのなら、すべての表情が尊いんじゃないのか。
次に、(というかこっちがメイン)モザイクアート風のゴミクヅが氾濫しているのが嫌だ。
画像が『そのまま』、最小単位として敷き詰められるところにこそ、モザイクアートの面白さはあるだろう。一枚一枚が『完全に独立した』画像なのに、それが集まったものには別の画像が見えてくる。これがモザイクアートの意外性であるし、美しさであるし、趣旨と言ってもいいだろう。
それを踏まえて、大量の笑顔の写真で構成された自称モザイクアートを少し注意して見てほしい。
たいてい上からでかい画像を半透明にして貼っつけてるんだよ。なんでもありだろそんなもん。バカがよ。
本当に笑顔の写真が素晴らしくて、尊くて、大切なんだと言うんならば、上からペンキぶっかけてんじゃねえよ。加工する場合がありますじゃねえんだよ。「近づくと一枚一枚が見える!」とか言うんなら一枚一枚鑑賞に耐える状態を維持しろよ。わけのわからん上の図画の都合で変色した一枚一枚を見て「わぁ〜」ってなんねえだろ。
もちろん「笑顔の写真」で縛って広く募る都合上、似たような写真ばかりで表現できる幅が狭くなってしまうのはわかる。
社会のメタファーとして、人物写真モザイクアートの構造は確かにハマっててやりたくなるのはわかる。
でも、別の写真をのっけて塗りつぶすなんて解決策は、笑顔の写真もモザイクアートの意義も台無しにしてるんだよ。
独立した写真が集まることで連続性を持つのが面白いのに、上からライン引いたらもうメチャクチャだろ。
顔写真縛りなのにどうやって青出してるんだろ〜?って近づいたら笑顔が青に塗られてるとかもう嫌なんだよ。
モザイクアートに限った話ではないけど、こういう何に対しても敬意のない有様を、ほとんどの人が見逃している。気づいてるのは俺だけ。俺だけが正しい。
カスモザイクアートの裏に、真面目に社会を良くしようと日夜懸命に働いていらっしゃる方がおられるのなら、私はその方を本当に尊敬します。マジです。私が間違っています。なぜなら私は働いていないからです。