ポルノグラフィティのパレットという曲で、新藤晴一が「知っている言葉はほんのちょっとで、でも感じれるものはそれよりも多くて、無理やり窮屈な服着せてるみたい」と書いている。この曲の歌詞がすごく好きだ。たくさんのおしゃれな言葉を連ねてカテゴリー化よくないって説明して、最後にはトゥルトゥル歌い出すっていう言行一致で誠実な歌だ。(もちろん12平均律だし、なんならJ-POPだし、いくらでも自己矛盾を指摘することはできるのだけど)

それでも言語化が好きだ。言語化しにくいようなことをこねくり回して言葉にするのが好きだ。全然うまくないけど。言葉にできないことはたくさんあって、言葉にすることはそういった仔細を切り捨てることであるし、感じていることからはどうしても離れてしまう。けれど、その乖離こそが言葉のえらいところで、自分ではたどり着けないところに連れていってくれる重要な性質だと思う。

言葉は他者だ、という感覚がおそらく人よりもある。意思決定など、自分でいなければならない時に言葉をこねていると、だんだん混乱してきて自分のことが全然わからなくなる。言葉によって自分の意識を写し取ることができない。つまり、考えることもできないように感じる。自分について言葉にしようとすると、自分でない言葉がただひたすら上滑りして、思考に自分自身が現れない。自分自身の意識との乖離を強く感じる。単に感情表現が下手なのか、言葉の本来的な他者性がそうさせているのかわからないけど。(あるいは自己の確立に対しての怯え?)

もしも、言葉が全てを誤解の可能性すらなく説明できてしまうなら、とてもつらいと思う。他者の曖昧さには逃避の余地があるから。

最近読んでいる本に、原因を考えることは原理的に責任逃れになるという話があって、ひどい現象だなと思った。要するに、起こったことに対して原因を網羅すると、自由意志の出番がなくなるから必然的に責任も消失してしまうと。
俺は自分に自由意志があるという感じは全然しない。生まれてからずーっと強制的に行動させられていると思っているし、常に不本意さがある。そんな感覚で生きてるやつに責任なんてピンとくるわけがない。責任がわからないから、常に因果を辿ろうとするし、原因を分析する能力を鍛えることで、否応なしに負わされる責任から逃げようとする。自由意志がないのに責任だけ負わされるのはあまりにも筋が通っていなくて理不尽だ。

書いていて思ったけど、責任を受け入れる過程で自由意志が存在するという錯覚を起こすのではないか。実際には存在しない自由意志なんて幻想をなぜこんなに多くの人が共有しているのかがずっと疑問だったんだけど、責任を負わざるを得ない生活がこの幻想を生んでいるとすると、なんとなくすっきり理解できる。だから、意志と責任を持ちたいのならば、不満こそあるが先に責任を負うべきだと、


クソみたいな説教を自分で生成して気分悪くなってしまった。俺に意志はない。死んだほうがいい。社会で責任を持って生きる全ての人間は俺の敵だ。