もう6年経ってしまったのだけど、好きな男性がいた。中学を出て、無の世界に放り出されたんだな、とじわじわと時間をかけて理解して、それでもまだ実感は伴わないような、そんな時期だ。幼稚な万能感とか、それを否定される恐怖とか、極めて凡庸な、ありふれた思考を意識することさえできず、ただ苛まれてもがいていた。彼が俺に関心を抱いた理由というのは、もう全然わからない。当時はわからないから不安でいっぱいだったし、今は理解するための最低限の能力すら失ってしまったように思えるから、結局わからない。もちろんこの場合に限らず、他者が自分に対して興味を抱く現象に対して、その因果を解き明かすなんてことは誰もできないとは思う。
自分が彼に対して、6年引きずるほどの思いを持ってしまった理由というのは、はっきりとさせたくはない。「凛とした痛み胸にとどまり続ける限りあなたを忘れずにいられるでしょう」とはよく言ったもので、苦しさを曖昧なまま心に留めておくことで、あの日の希望を忘れずにいられるなら、迷わずそうするし、事実そうしてきた。けれどあえて言葉にするならば、「他者を信用することができなくなっていた。」がひとつの答えだろう。それは期待することをやめてしまったからと言い表すこともできる。刺されるような痛みを与えてくる他者という存在になぜ信頼を寄せることができて、なぜそんな他者が寄り集まって形成されたコミュニティに、一人の個体として存在を共有できるのか。人を信用することができない、という不能感こそあるものの、ある程度の合理性を感じていた。
ともかく俺はこれ以上傷つきたくなかった。どんなに楽しい時を共有して過ごそうと、本質的な他者の加害性がどうしても心に引っかかる。中学に上がって初めての夏祭りで公立中学に進学した元クラスメート、とも呼びたくないが、に声をかけて、ニヤニヤしながらシカトされる。だとか、当時一番仲の良かった友達の体を触って強く拒絶されるだとか、M416と口に出すことができなくて、俺が言えればいいだけの実のない会話が数分なされるとか。
数え切れないぐらい無数に嫌な思い出というのはいっぱいあって、その嫌な思い出たちは常に他者によってもたらされてきた。他者によってもたらされた嫌な思い出たちをひたすら反芻し続けて、そのたびに胸が引き裂かれるような痛みに悶えて、そんなんで他者信頼ができるわけがない。俺のせいじゃない。勇気を出して他者と触れ合ってみても、虫として扱われる。さみしくて仕方がない。
彼は、俺が他者との関わりを避ける中で増長させた自分の自意識と似ていたと思う。吃音があって、厭世的で、聡くて、嫌儲で、インターネットだった。彼と触れ合う中で、傷つくことはなかった。俺は彼を尊敬していたし、そんな彼に尊重されているなと心から感じられた。傷つくことばかりが起こる世界で、唯一安心できる場所。所属とか、承認とか、セクシャリティとか、エディプスコンプレックスとか、小野ほりでいだとか、はてな匿名ダイアリーだとか、全部どうでもいい。地獄に垂らされた一本の糸のように、生きている限り永遠に続くであろう苦しみから救済される唯一の手段。デウスエクスマキナ。幸せになりたかった。
救済の擬人化が、自分に好意的で、積極的にアプローチしてきて、映画デートをして、本当に幸せで、人生でこんな喜びなんて二度とあってほしくない。セックスしたい。
結論から言うと、二度目のデートの帰りのホームで飛び込んでおけば、6年も新鮮な気持ちで思い返し続けることにはならなかったので、そうしたほうが良かった。
6年前に同性の友人と遊んだ程度のことをいつまでも、ああだったかな、こうだったかなとくよくよ悩んでいるのは、我ながら本当に気持ちが悪いのだけど、今更退けないので書き出してみようと思う。
・自分は完全にデートだと思っており、セックスがしたかった。この認識は多分食い違っていて、普通に友達と遊ぶぐらいのテンションだったんだろうと思う。
・距離がある自分に気を使って、早い時間に会うことを提案されて、そのまま飲んでしまったけれど、嫌だった。終電で帰りたかった。外的要因で解散したかった。長くふたりの時間を過ごしたくないみたいで嫌だ。伝えるべきだった。
・プランを練る段階で、ツイのオタクみたいに焼肉食べますかと提案されてそうなった。まず「ツイのオタク」というワードが俺は嫌いで、理由は嫉妬するから。女とデートする時に他の女を出さないでほしい。その頃の頻出語彙だったのだけど、彼の対人的興味が自分以外のところにいっているのがわかってすごく嫌だった。伝えるべきだった。意味不明だが。
・焼肉が食べ放題だった。人生で一度も食べ放題スタイルの食事をしたことがないので戸惑った。経験がなかったから予期することができなかった。時間を気にしながら食事するのは本当に苦痛だった。前回会った時は3時間ぐらいファストフード店で話していて、その満足感と比較してしまった。3年来とかの積もる話を消化し終えていたので、時間をとっても同じ満足感は得られなかったと思うが。
・映画の選択を間違えている。俺が観る映画を決めたのだけど、内容皆無のステイサムサメ映画を選んでしまった。「会いたいからって口実に誘った映画」だからといって、さすがに無かった。話が盛り上がるわけがないし、ふたりで観る意味も本当にないし、そもそも彼はかっこいいハゲのおっさんが暴れるのを見て喜ぶ趣味はなさそうだった。
・見終わってここで解散でもいいけど、友人に買い物を頼まれたから、ついてくるか?と提案されてアニメショップについていったけど、良くなかった。本当に映画見ただけで終わってしまうと新宿まで出向いた意味がなさすぎると思って、アニメショップとか全然行きたくないのについていってしまった。そこそこ長い道のりを無言で歩いていく時間本当に意味わからなかった。
全然アニメオタクでも声優オタクでもないので、気分が悪くなってビルを出た。苦しい。
友人の存在をちらつかされたのもめちゃくちゃ嫌だった。友達がいない俺が悪いんだけど。いやでも異常性をわかった上で付き合ってただろ。
なんかもう気分が終わっていたので、別れてから駅のホームで泣いたし、電車がきてこのまま前に倒れたら自分のことを忘れずにいてくれるだろうかとか考えていた。無事に五体満足で帰宅して忘れずにいるのは俺だけなんだけど。はあ?
これをきっかけにするでもなく既に結構気が狂ってはいた記憶だけど、発狂スイッチができちゃって、彼をツイッター越しに見るたびに発狂していた。ミュートしてるのに見に行ったりブロックしたり解除したりブロックしてもらったり解除してもらったり、意味不明のDMを送ったりしていた。直接見に行かなくてもフォロワーのフォロワーだから話題に出たりはするので、間接的に名前を見るたび発狂してしまう。(そもそもフォロワーのフォロワーになったのは彼が俺のフォローを追ったからじゃないかと思っているんだけど)
6年経ってさすがに落ち着いてはきた。諦めがつかなかったところで、あの日の彼は永遠に失われてもうセックスもできないわけだから、現実にどうこうアクションをするという話でもなくなった。けれど、今でもこんな文章を書いてしまうぐらいに記憶に刻まれている。自分の他者関係のうまくいかなさとか、所属感の希薄さとか、そういうことを考えていると、必ず思い返してしまう。結局未だに心はとらわれていて、嫌な成功体験を刻まれてしまったなと感じる。ああ、あの時は確かに救われていたのに。
シンデレラ症候群の栃木県の24歳中卒オスなんなんだよ。せめて東京に住んでろよ。