遺書1選

人間の不条理にも与えられた命に対してのささやかな反抗はキラキラ輝いて見える。年齢がその輝きを覆うまでは。

前田仁という青年がいた。2016年9月に首を吊って死んだ。28歳だった。なぜ俺がこの名前を8年経った今も記憶しているかというと、彼が自殺直前に取った行動に理由がある。前田仁は自殺の様子をライブ配信していた。だがそんなのはありふれたことであり、自殺者がどこに住んでいて、何歳で、何を感じ、どうやって死んだなんて仔細を記憶に留めるに値しない。母親が上げたやだひとしぃという悲痛な声が、ネット配信に乗って、日本の趣味の悪い人々を喜ばせたが、そんな些細な面白さは洪水のように人の死が消費されるインターネットにおいて、すぐに忘れ去られる。そんな凡百の自殺者と前田仁は、何が違ったのか。前田仁は書いたのである。自分の人生を書き出してみせたのである。

彼は自分がどういう人間で、どういう家庭環境で育ったか。自分の人格を歪めた出来事に限らず、母親と観に行った映画、子供の頃通った歯医者。そしてこの自殺がいかに人のせいであるかを、淡々と綴った。普通遺書というのは、自己弁護のために書くものだ。どういう思いで死を選んだのか、人は知ってもらいたい。最後の最後ぐらい美しいものとして死にたい。かわいそうだろう、美しいだろう、放っておいてくれ。そんな独りよがりで、最もその人から離れた文章が、遺書だ。だが、前田仁のそれは、赤裸々であった。前田仁の人生にカッコがつく出来事が存在しないという事情を鑑みても、あまりに剥き出しだ。俺は自分のせいではなく、恵まれなかったせいで死んだんだと主張するくせに、語られるエピソードはなぜかいつまでも覚えている幼年期のちょっとした経験が主だ。かわいそうな出来事はあるが、自分の被害者性を際立てようという気が見えない。本当に淡々と彼の人生が並んでいる。終始ぼーっとした文体で、普通の人が気にも留めないようなことに嫌な気持ちになって、それをいつまでも覚えている、前田仁という人が見た世界がそのまま書き記されている。誠実さなのか、無能ゆえなのかわからないが、俺はこの文章が好きだ。


俺はずっと27歳で死ぬのだと思ってきた。パープルヘイズもスメルズライクティーンスピリットも聴いたことがないが、どこかで27を意識していた。才能の無さがはじめてはっきりとわかる歳だと思っていた。これは、逃避でしかない。27で結果を出してるやつというのは、10代からすごいものだ。偉大な男になれるかなんて、中坊の頃から決まっている。それでも、27に縋って生きている。潔く死んでやろう。

27歳から人生の意味は変わるのだと思うことで今から逃げている。乗るのか、降りるのかを決めるタイムリミットの存在が俺を多少安心させている。どうせ自殺なんかしないのだから、色褪せていく諦念と共にただ息をすることを選ぶのだろう。面白みのない孤独でしょうもない人生をただ歩むという覚悟も決まらず、うだうだと不平を漏らしながら、適当に発狂しながらただそこに在るだけの生活がこのまま続くだけだ。


お前の人生意味なかったなと母親に吐き捨てて死んでいった前田仁は28歳だった。前田仁は27まで大成もせず、うだつの上がらない日々をやり過ごす覚悟もできず、かといって自殺もしなかった。この人の一貫したカッコつかなさというものが、俺は好きだ。



…別にね、このホームページを見てる人に同情してほしいわけではないんですよ。
じゃあどうして欲しいのかと言えば、謙虚さを学んでほしいですよ。

謙虚さというのは、自分が恵まれたことに気が付いて、その事に感謝出来るかどうかなんですよ。
そして俺はね、環境にも才能にも恵まれなかった日本国民なんです。
だからね、大抵の日本国民は俺よりも恵まれているんですね。

でも、みんな俺みたいな人間に説教したがるじゃん。
俺はね、そういうやつに言いたいんだよ。
「お前はただ、環境や才能に恵まれただけなんだよ。だからそれに感謝して慎ましく生きてろよ。」とね。

…はい。そういうことです。