悪くなくても嫌われることはある

悪くない人間を嫌いになるなんて出来事は世にありふれていて、俺も何も悪くないのに嫌われてきたし、何も悪くない人間に憎悪を向けまくって日々過ごしている。

批判は悪いことではないのかもしれないが、一般に嫌われる行為であることに間違いないし、嫌われる行為をして嫌われるというのは善だ悪だとかそういう話ではない。検討するべきは行いの善悪ではなく、嫌われる行為だと認識できずに実行に移してしまう無能さである。良好な関係を築きたい人間に嫌われるのは無能の結果である。私達は無能であるから、かけがえのない記憶を共有するあの人や、何の意味も持たない人生に価値を認めてくれたあの人に嫌われるのである。

いくら能力は偶然に得るものであると説いたところで、貧富の格差を縮めるという政治の本質的な目的に沿って適切に役割を果たしたところで、結局のところ人を好いたり嫌ったりするのは個人の自由であり、正しさで捻じ曲げられるものではない。不運にも人から好かれる才を持たずに生まれてきた俺とお前は、過不足無く再分配の働いた格差のない世界の中で、自身の無能を呪い、嫌われて死んでいくだけだ。

俺とお前が俺たちのためにできることは、人から好かれる才を持った隣人愛産業従事者に嫌なことをして、嫌われることだけなのだから、お前は正しい。お前は自信を持ってその道を歩んでゆけばいい。才能に恵まれただけの悪くない人間を嫌えばもっといい。どうせ嫌われて孤独に死んでいくのだから、嫌がらせに励むべきである。共に死のう。俺も好きな”ピン芸人”がM-1ラストイヤー準々決勝でパッチワークみたいなネタやってクソつまんなくて発狂したよ。コロナ最高。