動物化するポストモダン

 部屋が常に騒々しい。これには理由がある。

 俺は倫理的に潔癖なところがあって、あらゆる加害者性を自分から消したいと願っている。加害経験を反芻して反芻して反芻して、被害を反芻して反芻して反芻して、それで、自由意思のある一個体として存在すること、責任というものから本当は逃れられないと知りながら見て見ぬふりをして、一人遊びでドーパミンを出して寂しさ、不安、不甲斐なさをごまかす生活を、ずっとしている。責任概念は意思の土台になるものだから、責任を負う覚悟がいつになってもできない俺には意思がないことになるんだろう。意思がなく、ただ自動的に現象としてある。ただそれだけが俺の存在で、人生だ。

 はっきり言って意味のない人生だし、妄想の世界で敵と戦いながら作家ごっこをしているほうが遥かに上等だ。インターネットの狂人は人を刺し殺したり、自殺したり、都知事選に出たり、関係ないスレで一人100レスしたり、ウィキペディアにデタラメを書き連ねたり、そのどれもが俺の人生より有意義だ。そういう狂人として集団の中に存在するには、自分の意思を晒すことが必要で、素晴らしく自律しているように見える。そういう覚悟とか苦悩とか、思い上がりとか傲慢さとか、好きだ。愛してる。ラニーノーズの痛ファンとか本当に大好きだ。

 俺は運動競技者でなくフワちゃんに勇気をもらった。だから俺のために、キチガイは抑えつけるべきでない。そもそも、世の中キチガイだらけだ。基準を狂った社会に置いてしまえば、自分の気が狂っていることすらわからない。ポコポコと生命を産み落として、自由意思を押し付けて、国家が無実の人を処刑して、そういう犯罪が非難されることはほとんどない。道徳はどこからどう見ても欺瞞であるのに、強力な正当性があることになっている。ある種のキチガイだけが、それ以上に気が狂った群れから排除される。悲しく思う。

 動物を飼おうと思った。動物を飼うのは悪で、恥ずべき行為だから。気が狂った行為を俺の生活に意識的に取り込むことで、なにか変化があるとその時は思った。俺が恐れている加害者性の露呈には他者が必要で、家の中で動物を飼うことに他者は絡まないから、そういう意味の変化は皆無だと先に気付いていればよかった。まだ一人遊びの道具が増えた。

 そのネズミのためにエアコンをほぼ24時間付けっぱなしにしているから、部屋が常にうるさい。部屋がうるさいことには1年経って気付いた。一番強い3Mのイヤーマフを買ったら、ちょっと集中力が要るような行動のハードルが下がって、これって部屋うるさいせいだなって気付いた。聴覚過敏のけがあるのか普通に健常者もそうなのかわからないけど、本当に余計なものを飼ってしまった。ケージ噛みまくって死ぬほどうるせえし歯が黄色くてキモいし人間様を出し抜こうとしてきてムカつくけど、抱いて触ってると毛づくろい返してきてコミュニケーション取った気になれるから許そう。顔も俺に似てかわいい。